ブリブリのさらなる人生

無職からどう復活し、その先まで…

ちょっと自分のことを 2-1

ちょっと自分のことを書きます。
興味のない人はスルーしてください。


6月30日から事実上、一人での役所管理になりました。
一人だって知ったのは、面接のときで、でも、応援とかそういうのはもらえるもんだと思ってた。
尻がいい加減すぎる会社だったのがだんだん浮き彫りになってきて、 前任者はそういうのが嫌で辞めるってこともわかった。

しかし、実質2月から3ヶ月、転職活動やって、 俺は設備管理としても大きな資格として、ビル管や電験三種といった資格を保持してないし、 結構いろいろな会社に落とされた。

そういったなかなか仕事が見つからなかった事が、実力だけの問題か?というと、必ずしもそうじゃない気がする。

もちろん、なかなか面接が通らなかったために、自分の姿勢を見直したり、考え方を改めて取り組む方向性を変えてみたりした。
それが良い方に働いた可能性もある。
けれども、そうした努力とか、実力とかそういったものだけで説明できないことが、世の中には色々とあると思う。

最初に就職した会社は、大手の鉄鋼で、日本でも有数の大企業だった。
ここで、俺は先輩から、仕事だけでなく、社会的な礼儀や常識というものを習ったと思っています。

ここに就職しなかったら、俺はそういった一般的な常識がわからないままだったかも知れない。

ここでの仕事は、まずは稼働準備から立ち上げを担っていた。
それは世界でも最新型のフルオートによる非破壊検査で、詳しいことは説明しないが、当時としては画期的な試みだった。
しかし、そういうのは簡単にはいかない。
それで、みんな立ち上げに際して、非常に苦労してきたと思う。

大手企業だった為に、作業の標準化から、QCなどの品質管理、着装する保護具から工具の取り扱いや管理など、様々な会社としての取り組みについて学んだ。

これが後々、いろいろな会社に転職することになっても、常に自分の基本的なスタイルとして、身についていたおかげで、課題をクリアして来れたのだと思う。

当然のことながら、これ以上大きい会社は、おそらくはそんなに日本には存在しないから、どこへ行っても、ここよりも小さい会社へ就職する事になった。

それでここで、なぜ自分が安定した職場でなくて、稼働準備の、誰も装置の取り扱いを知らず、詳しく教えてくれる人が居ないような状態の場所へ、配属されることになったのだろうか?と考える。

このスタンスが、いわば、俺の人生最後まで、ずっと同じような気がする。

この後に就職した基板会社Aでは、数年でいきなりCAD設計を導入する事になり、俺が大手企業に研修に入り、そのまま客先内で、CADの運用をする事になった。
その知識を買われて、さらに次のステップとして、客先で開発したCADシステムの導入を、わずか22歳で行うこととなった。

この時の話になるが、職場は俺よりも10歳歳上の主任が仕切ってたが、CADと聞いただけで、常に逃げることしか考えていなかった。
本社から指示を受けても、自分は協力会社管理の立場だとか、わけのわからない事を言い訳にし、営業所が閉鎖になる最後まで、この人は知らぬ存ぜぬを通した。

ここでもう一つ。
俺は上司にはとことん恵まれて無い。
もっと言うと、学校の先生にもだが…

つづく