まず、音楽を分析することは、その音楽の深層に近づく。
聞いて楽しめるものが音楽ではあるが、それぞれのこだわりが、よりその芸術性を理解に導くものだと俺は思う。
本当に音楽が好きな人間は、誰から言われなくても、聞くだけでは我慢が出来なくなり、そのスコアを手に入れ、その音楽だけではなくて、音楽全般の知識を得ようとする。
それは、きっかけはその1曲かも知れないが、幅広い知識な無いと、その音楽を理解できないと悟るからだ。
しかし、その探求もまた、誰からか強制されることでもなく、自らが求め、探求する事を楽しいと感じる。
それが、本当の音楽を愛する人間の姿勢だと俺は思う。
聞くだけ専門で、演奏の探求をする人もいるが、ラーメン店の食べ歩きだけを突きつめる方向性だと感じる。
それはそれで、知識の蓄積なのだと思うが、ただ、おいしいまずいは、それぞれの主観による。
そこでだ、よく言われるのが、自分が楽しければそれでいいんじゃね?芸術っていっても、感じ方はそれぞれなんだから…って。
確かに、ある程度そういう部分もある事は否めない。
だが、これにはいろいろと事情もついて回る。
その事情とは何か?
その前に、そういうくだりを言う人間は、大抵音楽の勉強が足りてない人間ばかりだと言っておく。
結局、和歌でも、詩でもそうだが、客観的に誰もがいいと言ってるものは、そういう理由がある。
そのいいと言う理由については、そう感じる人が多いから…っていうだけではない。
人間は持って生まれた能力があり、美しいもの、優れたものを、知らずに理解しようとし、そういうものを受け入れる心が開くようにできてる。
逆に、汚れたものや、腐敗したものは、遠ざけようとする。
受け入れるものの線引きは、単純にそういう部分にあり、それはやがては生命の線上につながっていくもの。
少し難しく脱線したが、基本的な基準というものが、そこには存在し、その基準は、残念ながら誰でも理解できるものではない。
ゆえに、こちらでもクラシックコンサートに行って云々と、ご自慢を繰り広げる人がいるが、芸術は誰にでも理解できるものではない。
そういったことで、持って生まれた理解する才能と、人間がもともと持ち合わせてるものとが重畳して、はじめて芸術世界に踏み込めるのだと思う。
誰に言われなくても、スコアを広げて音符を見るのが楽しいと思えない人は、本当の音楽芸術を楽しむ事は出来ない。
今話してきたことは、あくまで娯楽という分類での音楽の話ではないので、誤解のないように。
掲題のマーラーの作品についてだが、ウィキペディアに詳しく出ているので、詳細について興味のある方はそちらを参照願います。
この曲については、いろいろな憶測が飛び交っているが、マーラーの第9番という数字へのこだわりのせいで、10番が未完成に終わったという説もある。
なんとか、第1楽章は浄書段階まで至ったとあるが、スコアをみると、いたるところ抜けが多く…
こうした景色は、ただ音楽を聴くだけの人には、わからない景色。
強弱記号や、アーティキュレーション―などの指示が、不自然に書かれていない。
自筆通り、スコアを出版してくれたことが、本当にその時のマーラーの精神状態を投影してくれていて、臨場感を知る事ができた。
指揮者は、その部分を当たり前のように、頭の中で補完して演奏を指示する。
その結果が、今日演奏されている形となっている。
よく音符を読んでいると、驚きと感動を覚える。
(表紙と写っている指揮棒は、俺が高校生の時に使っていたものと、娘が高校生の時についかっていたもの(笑))